昭和40年02月17日 朝の御理解
「信心しておかげを受てくれよ。」とおっしゃる。親神様の願いはそのまま、教祖金光大神の願いでもあると。「この方がおかげを受けてきた事を、話にして残しておくのぞ、金光大神が教えた事をたがわぬように、人に伝えてゆくのが、神へのお礼ぞと、それが神になるのぞ。」とまで教えておられます。天地の親神様の願いは、そのまま、金光大神の願いである。
「この方の事を生神 生神と言うけれども、皆んなもこのようなおかげが受けられると。この方がおかげの受け始め、皆んなもこのようなおかげが受けられる。どうぞこう云うお蔭を受けてくれよ」と、教祖の神様の切実な、自分自身がおかげをお受けになられた心。境地と云う。ね、それを、世界中の氏子に一人一人に伝えたい、おかげを受けてほしいと願われておるのが教祖の神様の願いである。
そこでまぁ申しますならば、私が教祖の神様の教えておられる事を、ささやかでも頂き守らせてもろうて、私がおかげを受けておる。だからここでゆうならば、どうぞ皆さんおかげを受けて下さいよと、氏子信心しておかげを受けてくれよと云う願いが、そのままだから、私の願いと云う事にもなるのです。どうぞ皆さん本当におかげを頂いて下さいって、こげなおかげ頂かれる道があるんですから、私がおかげ受けとるでしょうが、私の言う通りにすればおかげ頂きますよ。
これが、だから私が皆さんにかける願いなのです。ね、云うならばここでは私がおかげの受け始めなのです。そうでしょうが、ね、だから皆んなも私がここに受けておるようなおかげは、誰でもがおかげが受けられると云う事。なら私が頂いておるおかげと云うのは、皆さんがご覧下されば分かり、話を聞いて下されば分かる。私の話が分からんに致しましても、ここへ通うて見えておられればです、なんとはなしに私の心の状態も段々お分かりになるだろうと、こう思うのです。
難儀な事が起こったからと云うて、さほど難儀な顔をせんで済みとゆうて、調子に乗らんにゃおられないようなおかげを頂いても、おかげで調子に乗らんでも済み、ね、おかげを頂きましてから、本当に調子に乗らなければならないような時程、なんかしらんこう踏み止めでもしたような心、お気付けでも頂いておるのではなかろうかと云うくらいの気持ちでそれに当り、普通で云うならば、意気消沈しなければならないような時に、一つも意気消沈していない。
ニコニコとしておる。心の底でしれしれ笑うておられる。いやむしろその事に対して、お礼が申し上げられておると云うような気持ちを皆さんが頂かれたらです、青になったり赤になったりする事はいるまいと思うだけでも、本当に皆さんおかげを受けて下さいよと、その、願うところなのですよ。ね、そして形の上におきましてもです、ああこれが無尽蔵なおかげであろうかと思われるような、必要な物が必要に応じて、云うなら天衣無縫のおかげをささやかながらです。
そう云う一つの見本のような物を、私が身に付けそれを頂いておると云う事。だから皆さんも、こういうおかげを受けられたら難儀はないだろうなぁとこう。毎日心配し暮らさなくても、腹立たしい毎日を送らんでも、お先の方は真っ暗であると云うような、不安な毎日を送らなくともすむだろう。私ぐらいな者の信心でも、このようなおかげを受けておるのであるから。
私の云う事を聞いて下さりゃ、皆さんおかげが受けられるんですよと。「どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」という天地の親神様の願いね、この方が教えた事をたがわぬようにと教祖の神様が仰る。この方一人が生神ではないと、皆んなもこのようなおかげが受けられると教えておられる。教祖の神様のそのお心と、私今皆さんに申した事はね、それは大中小とゆうように違いこそあれ、願いは同じだと私思うんですよ。ね、
ね、ですから、どうでもお蔭頂いて頂く為にです、私どうでも本気で私の信心を見ながら、体得しようとする精進が、努力がだからそこんところをまた皆さんにです、これは毎日私が皆さんに朝晩お伝えさして頂いておる事はです、云うならまぁ私の願いと云うても、私いいと思うんですよ。今朝から4時半に丁度目が覚めましたから起こさして頂きました。御祈念させて頂いた。
そしたら頂きます事が、ね、『呉・佐・和・楽』と頂いた。漢字で呉は呉服の呉ですね、くれと言う字ですね。佐はにんべんに左。和は平和の和。楽は楽しい楽。この字全体に意味があるのではないでしょうけれども、その一字一字から色々感じなければならない事だろうと私思う。呉・佐・和・楽、それで私は直感した事と同時に、又どう云う御神意だろうかと思うてから、その事をまた神様にお願いさせて頂きよったら、次にあの『呉・越・同・舟』と言う事を頂いた。呉と云うのは、やっぱり呉ですね。
呉と越と云う国が支那にあった。もういつもいがみ合って、そのいつも戦争ばっかりしておる。その敵味方がで同じ船に乗っておると云う訳なんですね。椛目に私は一つの、まぁお徳の船と云う物がもしあるなら、このお徳の船に皆さんが乗っておらなければなりません。ね、そりゃなかなか極端な人がありましてですね、もう絶対私の言う事は聞かんけれども、自分らの信心を一生懸命しておると云う人が幾らもあります。そしてなかなかのいい信心をしておるんです。成程おかげも受けておりますです。
これはね、どうでも一つそれは例えてゆうならば、久保山先生と秋永先生と全然、そりゃ固いのじゃないけれど、性格の上に於てですたい、違った物を持っておられる。人がやはり、同じ船に乗ってなんとはなしの調和を保っておると言う事。同じ総代さんの中でもね、高芝さんと提さんと云うたら本当に性格が違う。違うけれどもやっぱり総代としての御用を、しかも手に手を取り合うてから、おかげを蒙っておられる。
私はその「呉・越・同・舟」と云う事。それから「呉・佐・和・楽」と云う事。そう云う事を頂いて、今日の御理解を頂いたんです。これが私の願いなのだと云う事。皆さんに対するところの頼みなのだ。「どうぞおかげを受けてくれ」と云う。天地の親神様の、ね、「この方のように皆もおかげを受けられる」とおっしゃる。教祖の神様のそのお心であり、お言葉でありそれはそのまま、ね、
大中小の差こそあれです、大坪総一郎の又願いでもある。 ここにおかげを蒙られる以上です、どうでも、ここんところのおかげを頂かんにゃいけん。私は、呉佐の呉と云う字、呉(くれ)と云う字、おかげと感じた。おかげを頂戴、おかげを呉れ、という事だと云うふうに感じた。まず、ね、そこから入信してくるのである。ね、云うなら、桃太郎さんにきび団子を頂くような物である。ね、
その代わりに鬼征伐のお供いたします、と云う事になってこなければいけないと云う。私が鬼征伐をしようと、私が、もう本当に椛目的にです、改まらせてもらおう、磨かせて頂こうと、我が心の中の鬼を本気で征伐さして頂こうと、意気に燃えておるのだから、皆さんも、そのきび団子のおかげを頂いたら、私も一緒にお供も致しますと云うものが、それは猿、犬、キジの相違こそあれ、これが一つになっておかげを頂き。
それぞれの持ち場立場、キジはキジ犬は犬猿は猿の働きを致して、なさらなければいけんのだと、こうそれが佐である。佐にんべんに左。椛目流と云う事なんですね、どうでも桃太郎さんのかかげた、例えば日本一の旗をおし立てて鬼征伐に行くところの、やはりこの信心がなされなきゃいけません。目指すところは鬼征伐なのであるね、そう云う例えば私について見えられる信心、本気で改まろうや本気で美しゅうなろうやと、そこから生まれてくるところの喜びであり、和らぐ心でありそれが私は和だと思うね。
その次に私が只今申しておりますように、無尽蔵と云うか、天衣無縫と云うか、神乍らと云うか、そう云うおかげの中に住まわせて頂いておる楽のおかげと云うのが頂けるのだと云う事。ね、犬でも猿でもキジでもです、ね、やはり同舟せなければいけない。同じ船に乗らなければならない。同じ目指しのもとに進まなければいけないと云う事。ね、呉越と云う、その越と云うことから、特に厳しい修行を感じます。
自分の心の中にです、これでおかげの受けられんと云うものを、自分の心の中にはっきり分からせてもらい、これを取り除いていくとと云う事はなかなか、やはり峠を越すようなものであろうとこう思う。私ここのところを努力しなくてはですね、私が云うようなおかげ、私が頂いておるようなおかげは頂けんと思うんです。それはお願いをする、おかげを頂く、いわば、私の流儀に添わなくても、おかげを受けておりましてもですよ、ね、「呉・佐・和・楽」と云ったようなおかげは受けられないと。
ですからこれは、云うならば私は皆さんに、これは頼んでおる訳なんです。こう云う信心せにゃ、こう云う信心して下さいと、こう云う信心にならせてもらやぁ、こう云うおかげが受けられると。だから、どうでも皆さんに、おかげ頂いてもらわなければ出来んと云う事。どうぞ、おかげを頂いてもらわなければです、ことによって、沢山の人が助からなければならない。我が身におかげを受けた事を、実意丁寧に、話してゆくと云う事が出来ないんです。ね、
例え、皆さん、ここへ30名なら30名の方が居られるなら、30名の方がです、私の言う通りにして、私のような生き方にならせてもろうて、私の受けておるようなおかげを皆さんが受けて下さって、こう云うおかげを受けたら、皆んながどんなに楽になるだろうかと、云うなら、私の願いは皆さんの願いであり、皆さんの願いがです、云うなら天地の親神様の願いに通うようなものでなけらねばならないと言う事。
私が申しました。ね、「どうぞおかげを受けてくれよ」とおっしゃる。皆さんがです、自分の周囲の誰かれに、どうぞこのおかげを頂いて下さいよと、切実に頼まんにゃおられんようなお蔭をです、皆さんが頂いて、頂く事以外にはない。それにはちょっと修行でもです、私の言うところを皆さんが守らせて頂かれて、私と一緒にです、鬼征伐にやらせて頂くと云うと心につながってです、お互いの持ち場、立場に応じてです。
猿の性格の人もあろう、犬の性格の人もあろう、キジの性格の人もあろうけれども、それが、仲良う手をつないでです、鬼征伐にやらせて頂くと云う事。ね、我が心の鬼が、だんだん征伐されていくに従って、しかも、それは椛目流に。ここのところが難しい。ね、椛目流にと云う事。でないとです、例えば、神様が大坪総一郎に、かけておられるところの、願いと云うものがあるとするかね、私を先頭に、こう云う一つ、御用をさせたいと云う願いがある。ね、
それにつれのうてくるところの、皆さんがです同じ船に乗っとかなければ、同じ願いを持っとかなければ事はなされない。事は成就されない。いかに何でも一人じゃ出来ん。そこに大きな意味合いに於ての天地の親神様の願いがです、適えられてゆく事の為にお互いが奉仕するね、そこには私は私と同じ船に乗らせて頂き、同じ味わいの中にですね、有難い事だなぁ本当に、この世の極楽のおかげ無尽蔵のおかげの中にですね。
日々喜びの中にです、どんなに人が青にならねばならん時でも、赤うならねばならん時、赤うならんで済み、青うならんで済み、ね、平生心を保ちながら有難いもったいないと云う日暮らしが出来る。そう云う日暮らしが、皆さん出来る時です、こう云う気持ちになったら皆んなもどんなに楽になるだろうかと、こう思う。その思いをです、実意丁寧に人に伝えていって、初めてまた皆さんの周囲の人が助かってくるのですから、どうぞ皆さんお願い致します。
ここんところを皆さんどうぞおかげ頂いて下さいと云う事になるのだと、私思うですね。昨夜、久留米の石井喜代司さんがちょうど、御祈念前に参ってまいりましてから云っておりました。今日は、朝の御祈前に、お初穂はここにお届けしてあったから、今日、喜代司さん参って来ておるなぁと、お届けだけさせてもろうとった。昨日、別府行き、朝からちょうど、夜の御祈念ちょっと前の時間迄かかって15軒のお得意さんを廻わったと、ここで言っております。
「先生もう本当に信心にならせて頂いてから、おかげ頂いておるように思うけども、じっとこうして考えてみると、今日でも2軒だけ二言だけは信心のある者が、こんな事言うてよかじゃろうか、信心のある者がこんな事してよかじゃろうかと云う様な事が御座いましたと。こう「本当につまらんつまらんですなぁ」と言うから「喜代司さんそれが分かって、そこにつまらんなぁと思う事が、信心じゃなかろうかね」と私申しました。こりゃ人間じゃから、商売人じゃから、こんぐらいの事を言うたんじゃ、もういわば私の信心から抜けておるようなもんだ。それが信心よと言うて、私話しました。
次に、こんな事も言ってました。本当に、有頂天にならなければならないように、まぁ自分の都合の良いように、話が進んでまいりましたときにです、まあ例えて云うならば、子供が試験にとおった。もう本当にお調子に、乗らにゃおれんごとある。喜びが心の中にあっておる、それをじっとえおさえてみる。おさえてみるじゃない、おさえる。そして平生心を保たせて頂く。
子供が試験に落第したと、そう云う時でもです、そう云うような、例えば喜ばなければおれない時、それをいわば小出しにしておく。おさえておくとです。そう云う、今度早々すると云ったような時にです、丁度よいバランスのとれるおかげが頂けれるといこと。ここに信心の不思議がある。信心によって調子にのらなければならないような時、調子にのらんでおくと、青うならなければならん時に、青うにならんですむように。そこに神様の特別な働きが、確かに頂けるって云ったような意味の事を。
「あんた、よかごと言うね」と、私、聞かせて頂いたんですけどね、確かにそうなんです。ね、これなんかは、云うなら私流儀に信心を進めておる姿であると思うのですよ、ね。自分の思うようになる事だけがおかげと思う。自分の思うごとならなきゃ、もうおかげじゃないごと思うてから当たり散らす。青うなったり、赤うなったり、ね、これでは、いつまでたっても、どうぞ私がおかげを受けてくれよ。どうぞ頂いて下さいよと云う願いからいつも離れておる事になりますから、本当のおかげは頂かれない。本当のおかげと云うかどうか知らんけど、まぁ椛目流のおかげにはならんと思うのですよね。
おかげ頂きました。